2009年9月には名古屋市芸術創造センターホールにて
第一回ウェルバ・アクトゥス公演が、
2010年12月には愛知県芸術劇場小ホールにて
第二回公演がおこなわれました。
2011年もまずはワークショップからスタートします。
公式ウェブサイトはこちら
2009年8月31日月曜日
生があり死がある
2009年8月29日土曜日
新キャチフレーズ完成!
櫻田さんは『頭角を出せサクラダファミリア!』
笑ちゃんは、『怪傑笑チャンネルは、快気炎!』 倉本さんは、『お色気路チョン姉御で御座る!』
杉本君は、『雨ニモ負ケズ女二負ケタ誰かに似ている優男!』ふみさんは、『ふみさんは、道をふみ雪をふみ足をふみふみ今日も行く!』
チエゾウさんは、『知恵(熱)を出すより、汗を出せ!』
ナオスケさんは、『ナオスケさんと言うよりもヨネスケさんでほぼ決まり!』 ミモザさんは、『家に在ったよ黄昏じやぁない可憐なミモザ!』
山田君は、『コミックキャラの山田君、角出せ癖出せ汗を出せ!』
柊さんは、『柊在ったよお家の裏に、迷信イワシの付け添えに!』
林ちゃんは、『カラオケ大好きメタボの親父!』以上林ちゃんでしたー!
2009年8月26日水曜日
中日新聞夕刊に紹介されました
8月24日付の夕刊です。
ぜひご覧ください。
2009年8月25日火曜日
私の「雨にも負けず」
私にとっての「雨にも負けず」は、裏に深い悲しみをもった歌と感じてます。
この詩では、大部分で赤貧と奉仕と自己犠牲が歌われていますが、最後の数行でおかしな展開を示しています。
「みんなにでくの坊と呼ばれ」「ほめられもせず」「苦にもされず」と。これを、とくに評価されなくてもいいという思いの表現とはとらえにくい。
これはおかしなことですね。その前で歌われている奉仕と自己犠牲が正しいならば、多少なりとも感謝されるはずです。
私は、この歌の前半の大部分は、赤貧と奉仕と自己犠牲の「甘い夢」と感じています。そして作者はそのことを自覚しています。
たとえば、「子供の看病」のくだり、ここでは医者に見せる金もなく、薬を買う金もないような極貧の家族は想定されていません。そのような中に賢治が行ったならば、賢治は裕福な家庭の子息ですから、金を請われたかもしれません。
「死にそうな人」のくだりも、たとえば、自分はどうなってもいい、残される子供たちを何とかしてくれ、という切実な死の場面は想定されていません。
「けんかの仲裁」もそうです。仲裁するとは、時にうらまれ、わが身を危険にさらすということを感じさせていません。何かを口にして、聞いてもらえるような良い人のいる世界を夢想してます。
この詩は、苦しいまでに屈折しています。厳しい現実の前に無力な自分。自分のできることは、甘い世界での小さな行いを夢見ること。しかもそれさえもできるとは思えない。
「そういうものに私はなりたい」というとき、そういうものとは何か、なりたいとは何か。深い無力感の中でしぼりだされたうめきに思えます。
この詩の後半には、書かれていない行間がたくさんあると、だからきっと賢治はこれを発表しなかったと考えたい。
そういうわけで、私は悲しい苦しい詩として、これを読まざるをえません。
2009年8月24日月曜日
撫子、今を楽しむ。
ラバトック杉本君へ!
明日を思う!
2009年8月22日土曜日
写真投稿
携帯メール添付でも、無事にupされたでしょうか(^O^)/
写真横になってたらごめんなさい…
ここは岩手県花巻市にあります宮澤賢治記念館です。
今日は曇り&涼しいため、見晴らしの良さはいまひとつでしたが、
それでも、素晴らしく多彩な雲と、眺望でした。
さすが土曜日、閉館の17時まで来訪者 結構いましたね〜☆
今更ながら気付いたこと。
マグノリアの木は、こぶしの木でした…っ。
すっご〜く大きな木が沢山の白い花をつけるんです。
小学校の裏庭にあったのがそうでした♪雷で折れちゃったけど(>_<。)
(笑子)
2009年8月21日金曜日
杉本です
体をつかうと、しっくりしてくる。思いとしてわだかまりがあっても。
kenjiの台本好きです。面白いです。美術も好きです。
正直に告白すると「雨にもまけず」が好きではないです。
初めて接するわけではありません。昔はそれなりに良いと思いましたが、
今回、あらためて読んで、好きになれない、この詩だけが。
作品と作者が、かけ離れていることは普通で、それをとやかく言わないです。
しかし、この作品は、賢治の実態が垣間見える気がして、好きにはなれない。
ただ、いまここで、もうひとつ深く考えますと
賢治は、これを詩として発表しなかったと聞きます。
発表しなかったのが、賢治の意思であったなら、賢治の苦悩が
想像できる気がします。
私です またあなたです
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クセック流でしごかれた二日間
18日、稽古前榊原さんに「前に話した事、ぜんぜん変わってないねー何で?」と苦言を催されました。
ううっ。
以前私の早口過ぎる癖を榊原さんに指摘され、その点意識し・改善するよう忠告していただいたのですが・・・。
「日常生活の中だけならいいとしても、表現行為として声や言葉を発する以上は自在にコントロールできなきゃ」
「自分のどんな挙動がどんな印象を与えどんな効果を生むのか、すべて自覚した上でそれらを己の意思で支配しコントロール出来て初めて自分を表現者と言えるんだと思うよ」
「ダイナミクスについてもそう。ピアニッシモはフォルテッシモが共にあって生きる。本当にか細い声しかなかったならそこには何の”効果”もないよ」
おおお・・・
18日の稽古の終わりに、榊原さんから重ねて言われました。
「進化することを望むなら、自らに抵抗を掛けねばならない。」
「早口なのが問題とするなら、頑としてスローに話すことに徹するということ」
19日、稽古に出るまで内省。榊原さんに言われたこと・・・それもあるが、もっと別の何かについて考えていました。普段から少ない口数がさらに少なくなり、気がついたらひたすら己の内に浸り切っている様な状態でした。
二日間の稽古は殆どの時間がコロスの為に割かれました。メインの藤沢理子さん・喜多千秋さん・樋口大介さんもずっと参加されてましたが、何だか御三方に申し訳ない感じ。
コロスの主な役割は「群読」ですが、台本の後半に一人ずつ単独で読む場面があります。
19日の稽古の後半、そこの指導がありました。
榊原さんの御指導は、MIZUKIさんのと比べるとかなり要求が厳しく、また執拗です。
「はいもう一回!」
「はいもう一回!!」
「○○を強調してもう一回!」
「○○と△△を強調してもう一回!!」
「・・・・・・・・!」
「・・・・・・・・!!」
「・・・・・・・・!!!」
「・・・いいじゃない」
そうした流れで何度でも。
別なところで仰っていたのが「百回繰り返して数回出来たことを、次は百回やって十回出来る・次は五十回出来る・次はまたさらに成功率を上げる、それが稽古」
「何度か繰り返して何度目かに出来るのは当たり前。本番は、初めの一回で確実に出来なくてはならない」要求が高くなるのも当たり前、ですね。
一人づつ、様々な指示を受け何度でも同じ短文を読んでいきます。
「もっと速く、もう一回」
「二文字づつ区切って、もう一回」
「吃音でもう一回」
そして私の番。一度目を普通に読んでみる。
結構声量出てることに気を良くしてたら、榊原さんが
「そこ、怒ってもう一回いってみよう」
いってみました。
んん?
なんか・・・いまのぼく・・・
爆 発 し て る
「よぉーし三文字づつ区切っていってみよう」
「もういっぺん怒っていってみよう」
「だめだめ途中しんどくなって休んじゃってるでしょ。限界に差し掛かって退くんじゃなく前に出るんだはいもう一回!」
いってみました。
ああ
いまのぼく・・・
超 ・ 新 ・ 星
もう燃え尽きてもいいさ・・・
って何を言ってるんだ私は。
まあ周りの方が皆圧倒された程度には怒りを表現できたかな。
バラさんの「出るんじゃん」が一番嬉しかったかも。
2009年8月20日木曜日
昨日の稽古
誰か書くかもぉ〜と思ってたら、触れられてないので…私から♪
今回のメインキャストで演出補佐でもある榊原氏による稽古。
昨夜は…
通し稽古を始めて以来初めて(と思われますが)、
見学者(制作陣)から拍手を頂戴しましたね。
そこに至る熱は、口では説明できない…
なので
皆さん、お会いしまショー(∩_∩*)ゞ
【コロスe笑子】
[RADIO U]Kenji公演の”中の人”鼎談
2009年8月19日水曜日
コロスについて
(林ちゃん)
音と光と土?
ワークショップ参加のみなさんから質問が来た。
ひとつは「コロス」とはなにか。
いま、私は名古屋にいないが、メインキャストの榊原氏が中心となって、自主稽古をやっている。おもに集団で同時におなじ言葉を朗読する部分。ここをぴしっと合わせるのがなかなか難しい。劇団だと、何度も何度もおなじ稽古をして、息とタイミングを合わせていくのだが、私はこれを6回だけのワークショップでできないかと考えた。その方法をいろいろと試して、かなり満足のいく結果が出せたのだが、榊原氏はまだまだ満足していない。なので、厳しい自主稽古を主催してくれているというわけだ。
コロスとは「chorus」、つまり「コーラス」のことである。
音楽用語として使われることが多いが、もともとの意味は「唱和する」である。
もうひとつの質問。
公演のタイトルにある「Kenji - 宮澤賢治・音と光と土 - 」の意味。
音はいうまでもなく音楽である。宮澤賢治は音楽が好きだった。また彼のテキストのなかには多くのユニークな擬音が登場する。彼はなんとか、小説でも音楽や音を表現したいと考えていた。私たちは実際に、ステージで音を使う。楽器であり、歌であり、声であり、また身体音である。
宮澤賢治はまた、光を求めた人であった。そのために信仰を深めていた。また、自分のなかの闇をも意識していた人であろう。その闇を浄化するための光を求めて書いていたのではないか。『銀河鉄道の夜』にはなぜかほとんど音が登場しないのだが、多くの光が表現されている。
私たちのステージでは、光は照明によって人工的に作りだされるが、それが照らしだすのは出愚坊一歩氏による巨大アートであり、またそのなかに存在する出演者そのものが光となる。
土もまた、いうまでもなく、自らを「農民作家」と呼称した宮澤賢治の世界の一部である。私たちはそれを、ステージ冒頭で表現する。冒頭で土のなかから光が立ちあらわれ、人々が大地へと登場してくるのだ。土はまた、土くれ(まんだらけ)となって、ラストでは天から降りそそぐ。
(演出:MIZUKI)
撫子です
林ちゃんだよぉーだ!
中日新聞の取材打診
ナオスケです
(ノ><)ノ
簡単なステップ なのに・・・
朗読の稽古とおもえば、ダンス?もある? かと思えば、美しい調べのビアノと歌声も聞こえる。Kenjiは芸術の集合体か?
私の存在は単であり、集なのか?
私はナオスケ。コロスの一人。
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ふみです
以前よりさらに、読みたい、表現したいと言うおもいが強くなっている自分に驚く。
第1音を、いかに、雑に発声していたかにも気付き、改めて反省。
私の変化に、先生や仲間たちは、気付いてくださるでしょうか。
読み始めたら止まらなくなり、こんな時間に・・・。
寝坊しないようにしよう。 ふみ
2009年8月18日火曜日
くやしいけれど
出演者のお一人、藤沢理子さんが私の傍を通る時♪
特に、すぐ後ろから声がすると、ぞくぞくしちゃう(笑)
あ。悔しさは別の件www
なんとかしてみるやぃo(´^`)o
【コロスe笑子】
暑いですね〜!
撫子でーす!
林ちゃんですよ!
8/16にちよーび
舞台の最後に降り注ぐものの正体が明らかになりました♪
…いいですよね?『降って来る』ぐらいは喋ってもww
だって、めっちゃスゴい数なんですョー!
う〜ん、美術や音楽に負けられない(笑)
綺麗な舞台に、出演陣も華を添えまする\(≧∇≦)/
【コロスe笑子】
2009年8月15日土曜日
一(いち)コロスの過去のブログから、その五
皆~だれか早く書き込んで~。
H21.06.20 Kenjiワークショップ第二回目
H21.07.18 Kenjiワークショップ第三回目
第一回のことは書いてませんでした。他のコロスにお任せ!
まあ今思い出せるのは、MIZUKIさんとこの馴染みの”語りっ娘”こと小林沙也佳さんが参加されたこと(MIZUKIさんのPodcast、RadioUのジングルで「ご~とくじ~かるちゃ~ふろんとー」言ってはる方です。あれめっちゃ好き)
あとWS会場のアトリエ・ツバキハウスで、WS終了後懇親会という名のどんちゃん騒ぎが行われたのですがそこにめっちゃ若い別嬪さんが突然いらして、お話を聞くと「一歩先生と先日飲み屋で初めてお会いして、それで今日面白いのがあるからちょっと来い、と誘われたんですー」
一歩先生への尊敬の念を深めたものです。
先生、僕も頑張ります。
2009年8月13日木曜日
一(いち)コロスの過去のブログから、その四
榊原忠美氏「木を植えた人」を聴く会(2008/12/12)
榊原忠美氏「大きな翼のある老人」 (2009/01/29)
Kenji公演の主催・美術担当の出愚棒一歩先生、製作の深澤伸友氏と初めてお会いしたのは「木を植えた人」朗読会が最初だったと記憶しています。劇団クセックactの様式とはまた違う、ある意味純粋な榊原氏の世界を見せていただきました。
「大きな翼のある老人」ではMIZUKI氏がピアニカを携え急遽参戦。
音楽担当の坂野氏のクラリネット、榊原氏の朗読と、大須の美容室を舞台にもうやりたい放題の即興パフォーマンス。
かの時は観客の立場でしたが、小生にとってこれがウェルバ・アクトゥスの原体験といえます。
MIZUKIさんが引越し前のブログで述べておられますが、このころ既に御自身の活動を「朗読」と称することの違和感を公言されてらっしゃいました。
"Verba Actus"の名称が見出されるのはもう少し後。
当時の自分のやMIZUKIさんのブログ、コメントを読み返していると何だか感慨深いものがあります。
あのころは自分も(ライブとしての)表現行為をしたいとぼんやり思っているだけでしたが、何だか気がついたら舞台に立つことになってるし!
一(いち)コロスの過去のブログから、その三
昨年11月末に名古屋で催された現代朗読協会のワークショップで、初めてMIZUKIさんに御指導いただきました。Kenji公演で主演される野々宮卯妙さん、榊原忠美氏とここで初めてお目にかかりました。
コロス組の村田笑子さん、チエゾウさんもこのWSで初参加・初顔合わせ。
下記はそこでの御指導の内容の一部を、後日纏めたものです。MIZUKIさんと現代朗読協会=ウェルバ・アクトゥス(=でいいんでしたっけ、MIZUKIさん?)の基本理念といっていいと考えます。
ヘッドフォンから逃れたい/朗読WSでのこと(2008/12/01)
先日のWSで印象に残っていることをこれから定期的に書いてゆこう。
水城氏の指導の序盤で、現代朗読協会の基本理念について説明を受けた。
まず朗読という行為において
「朗読者」「テキスト」「聴衆」の三者が必ず存在する。
一般の朗読ないし音読はテキストの情報を正確に聴衆に届ける、そのことしか見ていない場合が殆ど。
たしかにテキストの内容を損なわず、余計なものを足さず正確に伝えるのが前提だが、我々は何より先に「朗読者」と「テキスト」の関係というものを真っ先に考える。
そして「朗読者とテキストの関係」を聴衆に提示する。
そして「このように読みなさい」という手本を示すことは(少なくとも積極的には)しない。
朗読者自身の在り方、テキストの解釈、表現を外からあれこれ弄りまわさずその人なりの朗読が成立する条件を提示する。
「私自身は朗読を行っていません。私の立場で表現行為をすれば、学んでいる人達に私自身のやり方を押し付けることになりひいてはその人自身の初期衝動・解釈・表現を損なうことになりますから」
今回最も印象に残ったのは、もっとも考えさせられたのは水城氏のこの言葉かもしれない。
一(いち)コロスの過去のブログから、その二
はじめは古文をとつとつと読んでいく内容で考えていたが、たまたま青空文庫で目にした夢野久作の「悪魔祈祷書」を気に入ってしまいこれを第一弾とした。
古書店の老店主の一人語り(正確にはある客との対話での店主の発言部分のみが書かれている)、という体裁の作品で、なんというか素人のくさい一人芝居になってしまった。
表現上のことは置いて、録音・編集のことで思い出すまま書いてみるなら・・・
iPodにボイスレコーダーのデバイスを突っ込んで左手にかまえ、右手で原稿を持ち読みを録音していった。このデバイスが結構優秀だった為、所謂吹かれノイズだけでなく、舌がたてる音や座ってるベッドの軋む音、自宅近くを通過する新幹線の音までばっちり録音されるのだ。
後にフリーソフトのSoundEngineでしこしこそれらノイズ部分を削除してゆくのだ。他の機能はまるで使いこなせないくせに「切り貼り」だけは習熟した。
次こそ古文に挑戦、のつもりがまた夢野氏の「斬られたさに」を読み始めてしまい、またしても、否前作以上に気に入ってしまった。
台詞の端正さ。対話の美しさ。何より登場する主要人物が皆個性と魅力に溢れ、読後この作品がこの一編で完結してしまった事が残念でならなかった。あの結末しかなかったのでしょうか、夢野先生?
そして勢いだけでやり始めた。
iPodで快適に聴いてもらう、ということにかなり腐心していたと思う。
iPodの場合「歌詞」で一度に表示できるテキスト量は4000字と知って、全テキストを分割する際それを目処にして音声ファイルの方も編集した。mp3と共にtxtファイルで同じ箇所の文章もアップした。
ブラウザでココログのページ上でも視聴できるが、iPodに落として聴くとき
「斬られたさに」が一枚のアルバム、分割した各ファイルがその中の一曲で、それを再生する際に「歌詞」でテキストも同時に見られるようにしたかったのだ。
ブログを用いて音声とテキストを共にアップするやり方は自分でも気に入っていた。再開する際もこの形式を踏襲するつもりだ。特に古文など、国語教育的な効果を意識する場合は耳と目から同時に作品を鑑賞できたほうがいいと思うのだがどうだろう。
その後不本意ながら表現上の悩みに独りでは答えが見出せず、「斬られたさに」の終盤で更新は止めてしまった。
水城氏と現代朗読協会のことも知っていたものの、師事することまではまだ考えられなかった。
実際に御指導を仰ぐまでに二年近くを経たことになる。
一(いち)コロスの過去のブログから
本公演とは直接関係ない筆者の自分語りのところも多いですが、MIZUKI氏と氏の活動についてまだご存じない方々にご紹介する上で多少役立つところもあるかと考え、こちらにいくつか転載させていただきます。
現代朗読協会ワークショップへ(2008/11/23)
水城雄氏を知ったのはオーディオブック「誰も教えてくれなかったジャズの聴き方」からである。
国内のジャズ界でピアニストとして活動された後、職業作家として文筆業に軸足を移された著者が一般の初心者リスナーへむけて記したジャスのガイドブック、そのテキストを元に製作された音源だ。
iPodを第5.5世代が発売された時期に初めて購入し使い始めた。Podcast、オーディオブックを聴くようになったのもそれからだが一番最初にiTunes STOREでダウンロードしたのが「~ジャズの聴き方」であった。
テキストの内容は素晴しいものであったと同時に、他の部分で幾つか考えさせられることもあり筆者にとっては〝原体験〟にあたる、様々な意味で重要な作品だ。
以前筆者は朗読のジャンルでPodcast配信を試みていた時期がある。
今までに「声質」を褒められたことが何度かあった。しかしながら実生活では声量も少ない・滑舌も悪いでこちらの話を聞き返されることが多く、これがコンプレックスになっていたのが実情である。
男は三十過ぎたら手前の顔に責任持て~と誰が言ったものかは知らないが、自分が他者にどんな印象を与えているのか?顔だけじゃない、声も話し方も姿も生き様もだ。それを弁える事の重要さに気づきつつも、真に向き合って取り組むことを怠ってきた。
ほんとに遅すぎた。遅きに失した?否まだまだ。
コンプレックスの払拭、己の真価を問う...とは大げさかもしれないが
あの時褒められたことは真であったのか、もしそうならばそれを確かめ続けたい、動機の芯にあったのはそんなところだろうか。
結局その配信は肝心の「読み」「表現」の部分で行き詰まり更新が滞ったまま、プロバイダの解約に伴うブログの閉鎖で全て消えた。本人の得た経験以外に、残すべき価値はそれほどなかった。
この歳になって思う所あり、三つの「手習い」を始めることを決め内二つの為に名古屋近郊に転居してきた。ひとつは音楽。ひとつは舞踏。
で、それらとは別の最後のひとつが朗読。
水城氏は音楽、執筆活動と並行して「現代朗読協会」を主催され精力的に活動されており、ブログもほぼ毎日更新しておられる。(誰かとはえらい違いだ)
そちらで日々の活動を拝見していたが、今月WSが名古屋で開かれると知り御指導を仰ぐことに決めた。
やりかけの事に決着をつけたいのだ。
初投稿?
こちらのブログでは出演者、関係者全員が自由に書き込める事になっております。
このままでは私が初投稿になってしまう。いいのかしらとおもいつつ執筆中。
ブログである以上、内容が整理されることを書く前から気にしても始まらない。
それより日々どんどん更新されていく勢いの方が大事なのかも。
Kenji公演の為の本ブログではありますが一出演者として、師匠であるMIZUKI氏との関係や主催、主演の皆様との御縁を示す意味で、小生の過去のブログからいくつか転載させて頂こうかと存じます。どうぞよしなに。